アセロラへの愛憎日記

どうぶつの森シリーズのキャラクターであるアセロラを貶めるための日記です。

【アセロラを叩き出せ】

特別お題「わたしの推し

私は推しという言葉が好きじゃない。好きな人・物に対して”推す”という言葉は上から目線じゃないか。そして流行り言葉は軽々しく気持ちや愛情が全く篭っていないものだ。言葉とは自分の見聞からなるものだということに気づいてほしい。故に流行り言葉を安易に使う連中の経験は高が知れていると私は感じる。もっとも流行り言葉というものは共感を得やすいもので使い勝手がいいかもしれないが、最低限意味や語源ぐらいは知って然るべきだ。あなた方のいう”推し”に対して何か、本質的なことはしてあげられているのだろうか。結局のところそうやって上から目線あふれるこの言葉を投げつけているだけではないだろうか。

流行り言葉への愚痴は置いて本題に入りたいと思う。それでは”わたしの推し”とはなんだろうか。人だろうか、物だろうか。答えはアセロラを叩き出すということだ。叩き出すということを推奨するということだ。つまり人でも物でもないが立派な推しではないだろうか。そして対象であるアセロラはゴミのような奴で気を使う必要は毛虫の糞ほどもないし、促す行動も非常に魅力のあるものだ。これこそが正しい”推し”であり、今こうして執筆していることが所謂”推し活”なのだ。

私はこのテーマで8年推し活を続けたが闇が深いだのキチガイだのという言葉を投げつけられるだけだった。闇が深いとは何か。あなた方の理解が及ばない非を、私の人間性に転嫁するための言葉だ。こういう連中は全くもって理解しようと努めないので、内容が低俗か高尚かの区別すらできていない。表面的にしかものを捉えることができないので何一つ私からのメッセージを受け取れていないのだ。つまるところ、”闇が深い”という言葉も”推し”と同様考えることを放棄した人間がこぞって使う傾向にあるらしい。

アセロラを許すな

アセロラを許すな

そういう馬鹿どものために今一度解説したいと思う。なんの利益も生み出さず中途半端で使い出がないアセロラが栄誉あるどうぶつの森の住民に返り咲いたのは何故か。それは消費者を優良誤認させるためだ。住民の数という定量指標は愚かな消費者を誤魔化すのにうってつけだからだ。ゲーム性だとか、どうぶつたちの会話のバリエーションだとか、そういうのは不要というわけだ。プレイヤーが求めているものにコストをかけて作り込むよりはアセカスのような馬鹿みたいなキャラクターを嵩増しした方がよっぽど効果的で楽だと思われているのだ。

そして、何故私がその痴態を看過できずにいるのか。8年も飽きずにリストラを訴え続けているのか。それはアセロラに好意を寄せる人々に加えて無関心でいる人々があまりにも多すぎるからだ。アセロラに対して無関心でいられることは、言ってしまえば都会の駅前が吐瀉物の饐えた匂いで充満していることに慣れているようなものだ。自分の見た目を鼻にかけ日がな一日妄想に更ける馬鹿カス、何でもかんでも容姿や恋愛に結びつける時代錯誤の会話内容。昭和に生まれた連中が考えたような文章を子供が読んでいいのか。馬鹿どもが。いい加減気づけカス。学のない能無しどもがこぞって偉そうに俺のブログをコキおろすんじゃねえぞゴミどもが。文化は水のようなものだ。汚染された水を飲んだら免疫が下がって病気になるのと同様、退廃した破廉恥な文化が国力を削ぐということに気づけ。

アセロラは精神だけではなく物理的にも人を犯す。汗を一瞥でもしようものなら網膜を犯しつくし視神経、脳の視覚野までもがあの経血じみた赤色で犯されていくのだ。視覚野の方から脳みそなしになっていく。事態に気付いて怒り狂ったが最後、怒りの感情により脳に老廃物が溜まっていきアルツハイマーになってしまうのだ。そこまでいけばどうぶつの森を推奨された通りに、何も考えずに受動的に楽しむことはできるかもしれない。ただ、他の文化的な娯楽引き換えにしてでも楽しみたいゲームだろうか。

アセロラを許すな

アセロラを許すな

話は戻るが昨今”推し”であったり、”闇が深い”という言葉が溢れかえっている。これこそがアセロラを8年ものさばらせた結果だ。前後の文脈を理解せずに言葉を記号的にしか使うことができない馬鹿は、定型文しか言えないどうぶつの森の住民と同じ。

どうぶつの森の住民みたいな馬鹿でも生きていられる斜陽の国、日本。我が国の日の丸は思春期の潰れたニキビぐらい、経血塗れのアセロラぐらい赤黒く染まってしまった。